1序

1.6 日本式のルール化の努力

昭和3年の大手合で、瀬越七段と高橋三段の二子局に生じた「万年劫問題」や昭和23年の呉清源、岩本薫和十番碁の第1局に起きた「手入れ問題」は先は日本棋院囲碁規約の成文化をうながすことになったけれども、その後に生じた有名な呉清源、高川秀格三番碁第2局の「一手劫問題」の勃発によって日本棋院にルール合理化の気運が生れ、日本棋院理事会の委嘱によって「囲碁規約改正委員会」が昭和37年に組織されたことは注目すべきことでした。棋士として前田九段、村島七段、藤田六段、それに林裕、安永一、島田拓爾、貝瀬尊明の諸氏によって構成されました。

安永一氏の昭和7年に「棋道」に発表された「囲碁憲法草案」は囲碁ルールの成文化の第一着手として極めて貴重なものであり、島田拓爾氏の「囲碁の数理」の著作の中に示された囲碁ルールの研究は囲碁ルールの研究にとって不可欠の文献である。

その中に示された、米国人のオルムステッド(John M. H. Olmsted)及びロビンソン(Karl Davis Robinson)両氏の「碁の合理化」の論文の紹介は特に重要なものと云うべきであろう。又囲碁ルールの研究家の貝瀬氏の提案(私は囲碁百科辞典掲載のもの丈しか知らない)が大変注目すべきものであろう。これ等の優れた専門家によって、日本式のルール化の努力が行なわれ、昭和38年に改正案が提出され更にその改正案が翌39年12月に「棋道」に発表された。これに就いては後に掲載することにしよう。しかしこれはまだ日本棋院で正式に採用されていない。

初期のルール成文化はもっぱら、死活の定義に重点が置かれたけれども、その困難さが次第に明確になるとともに次第に、死活の定義をしないでのルールの確立の方向に向かっている。その過程は、島田拓爾氏の「囲碁の数理」の初版と改訂版を比較検討されることによって明らかになるであろう。

私は諸先輩の優れた業績を継承しながら囲碁のルールの問題点を解説しつつ、私なりの試案を作ってみたいと考える。