エスペラントには不思議な表現がある。それはしばしば数量を表す前置詞 da とともに使われる副詞が、あたかも名詞のように扱われ、主語や目的語、前置詞の目的語などとして使われるということである。
文法的には上の文の da 〜 前置詞句は、その直前の副詞(multe, kelke)に係る。つまり例えば、multe da mono の主要な単語は multe である。
まず、不思議なのは multe da mono といった形の句が目的語の場合、その句の主要な単語は副詞なので対格にならないということである。(副詞の対格は方向・移動を表す)
しかも、この形の句が受動態文の主語として使われた場合、叙述語が形容詞になるのか副詞になるのかがはっきりしない(-a で終わるの分詞か -e で終わる分詞か)。ザメンホフは Fundamento de Esperanto の中ではないのだが、下のように副詞でなく形容詞を使っている。(常にそうなのかどうかは知らない)
PMEG は、例えば 1. の場合、主語の multe da larmoj の主たる語は multe であるから受身分詞は理論的には副詞語尾 -e を付けるところだが、意味上から larmoj を主たる語とみなして叙述語は形容詞語尾 -a にしている、といった解説となっている。
http://bertilow.com/pmeg/gramatiko/kvantaj_vortoj/e-vortoj.html
どうもこの形の句の振る舞いは奇妙で釈然としない。どうしてザメンホフはこのような表現を取り入れたのかなと思う。
2018/11/22 追記:確かに構文的には前置詞の目的語は主たる語ではないが、意味的には主たる語になると思えて来た。
Li gajnis monton da oro. と言うとき、手に入れたのは山ではなく金である。もし構文上の目的語 monton を主たる語と見做してしまうと目的語は山になってしまう。それならば数量を表現するとき multo da oro でなく multe da mono と敢えて副詞を使った表現の方が意味上の主たる語がはっきりと見えてくる。da は普通の前置詞と違ってそういう特殊な意味上の関係を表すものなので、副詞の方が好都合なのだといういうことがおぼろげに理解できて来た。