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エスペランチストに対する敬称をめぐって

「のほほんエスペラント講座」を書かれた nulpleno さんの Ĉu mi povas nin nomi SAMLINGVANOJ? と題したページに kara samideano といった敬称についての考察があって、なるほどと思うことがあった。

自分のことをエスペランティストと呼ばないのと同じように、 自分からはsamideanoとかkamaradoとかいう呼称も使わない。samideano はsam/ide/an/oで、sama(同じ) + ideo(観念、思想) + ano(構成員、会員)、言ってみれば「同志」という意味になる。kamaradoは語根語でやはり「仲間、同志」という意味だ。

これらの呼称に違和感があるのは、言うまでもなく「同じことばを使う=同じ思想(理想)を共有している」という仮定を含んでいるからである。ザメンホフさんには悪いが、またザメンホフの理想に共鳴する人たちにも申し訳ないが、世の中そんなに単純じゃないだろう。.....

しかし、「同じことばを話す人への敬称」がないのも困る。......

そこで、samlingvanoというのを捻り出した。sam/lingv/ano = sama (同じ) + lingvo(言語) + ano(構成員、会員)、日本語で言うなら「同言語者」、方言とかになぞらえるなら「同郷人」という感じだろうか ......なんだかまだぎこちないが、これを使ってみようと思っている。.....

.....「アナタ、えすぺらんとハナス。ワタシ、えすぺらんとハナス。オナジコトバハナスドウシ」というところで初対面の折り合いをつけるのが妥当ではないだろうか。

....

samlingvano が最適かどうかは別として、考え方としては全く同感である。

私はエスペラントがなんらかの思想と結びつくことには危惧するし、エスペラントと思想をからめた議論には加わりたくない。また、エスペラントが橋渡し言語(ponto-lingvo)となることによって相互理解ができるようになり、この「理解」が世界から争いごとをなくす手段になるはずとか、あるいはなってほしいとか、そういった推測や期待に対しては疑いを持っている。

争いの種は理解ができないからではなく、アイデンティティからくると思っている。所属意識といってもよいかもしれない。アイデンティティというのは全くあやふやなものだ。刻々と肥大したり縮小したりしている。あるときは個体に、ある時は家族に、ある時は偶然分けられた自分の所属グループに(青組でも赤組でもなんでもよい)、生まれた地域に、国に、同じ言語を使っているグループに...

そして自ら選んだ訳でもないのに、なぜか無意識の内に自分が所属するものに対しては忠誠心とか犠牲心を持ってしまう。これが危ういのだと思う。忠誠心をもつということはそれ以外のものに対して敵愾心を持つことでもある。この感覚は言語を介した「理解」などはよりよほど強力である。争いの種は理性にあるのでなく感情にあるのだと思う。オリンピックで熱い戦いが繰り広げられれば、自分で選んで生まれた国でもないのに自国の選手を応援したくなる衝動をどうしようもない。支持率が落ち目の為政者が国外に意識を向けさせるための方策だと分かっていながら、感情レベルではその作戦についつい嵌ってしまうのは人の常ではないかと思う。

だから、橋渡し言語によって「理解」が生まれるから争いごとが減るということはあり得ないと思う。ただし、互いに同じ橋渡し言語を使うという事実の中でまた一種の肥大傾向のアイデンティティが生じることはあり得ると思う。この無意識のアイデンティティこそは、争い事を減らす1粒の可能性を秘めていると思っている。

だから、「理解」しようなどと考えずなにより使う事が大事なのだと思う。何を話題にしてこの言語を使うかはどうでもよい。切手でも折り紙でも何でもよい。むしろ思想的なことを語って「理解」を生もうなどと議論しないほうがよい。使うといっても言語を異にする人との間で使わないと意味がない。日本語で話せばすむ人とエスペラントで語っても、面白くもないし、上に書いたような意味での新たなアイデンティティが生じる可能性もない。まあ訓練として日本人どうしで会話するのは、それはそれで意味はあるのだが...